生きてちゃいけないの?

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NHKで出生前診断の特集をやっていて見ていた。
前にブログで、その事を書いたけど、

「命の選別」

ブログのアクセスログを見ると、「出生前診断」や「ダウン症」などの検索キーで検索して飛んできている人がいるので、みんな、何かしら気になっていることなんだろうなって思う。
産むにしても、堕ろすにしても、それぞれ、傷つき、もがき、苦しんでいることにはかわりないのだろうし、この特集を見ていても、凝視できないぐらいの苦しみが伝わって来て、胸が痛くてしかたなかったです。
だから、一方的には、どうのっては言えないのだけど。
でも、前に書いたブログで言ったように、やっぱり、"何か"がおかしいのです。
その"何か"でみんな苦しみ、傷ついている。
それでも産みたいのに、出来ないという"何か"に苦しんでいる。

以前、10月8日にやるイベントのスタッフミーティング の前で、早めに集まった友人と話していたのだけど、この問題とリンクするのが、「尊厳死」の話だと思っています。
イギリスで、尊厳死を希望する脳卒中で全身麻痺の患者が裁判を起こし、結局、認められず。その方は、餓死という形で亡くなりました。
イギリスを含め欧州では、この手の議論は盛んで、裁判が幾度も起こされ、却下されると尊厳死を認めているスイスに行って亡くなるというツアーの様なものまであります。

生も死も意味があるとは思うし、終末期医療における積極的治療の中止という観点から尊厳死を語られるのであれば良いとは思うのです。
ですが、ちょっと足の置き場を間違えれば「障がいをもつ。動けなくなる。」=「世の中のお荷物」という根底に流れてしまっている精神状態そのものを助長させるだけに過ぎないと私は感じてしまうのです。
現に日本で超党派議員による尊厳死における法律では、第一案では終末期医療における積極的治療の中止を語っていますが、第二案では障がい者や高齢者に対する尊厳死の許可まで幅広く語られていまっていて、私なんかはゾッと感じてしまいます。

動けなかったら、動けなくなったら、人間じゃないのでしょうか?
五体満足でなかったら、社会のお荷物なのでしょうか?

確かに、色々と費用も人手もかかることだとは思うし、きれい事だけではすまないとは思うのですが、親族だけが介護するとかいうから難しく、苦しくなるのです。
みんなで力を持ち寄り、みんなで助ける。
その考え方さえあれば、一つ、一人の負担が軽くなると思う。

昔、重度の精神障がいで仕事にも長い間行けず引きこもり状態になっていた友人がいて心配になって逢いにいったことがあります。その時に友人がぼそっと「タ ダ飯喰らい、穀潰しは恥さらしだ。死んだ方が世の中のためなんだ」と言った言葉が胸に突き刺さりました。今でもそのときの表情や声を覚えています。

イギリスで尊厳死を認められず餓死することを選んだ男性は、Twitterで「生きていてよかった」と最後のメッセージを残していたけど本当なのかな。

自分も2年前、寝たきりを宣告され、下の世話さえも出来ない状況が何ヶ月か続いたけど、「生きているならそれで良い」って悟って、今の自分をそのまんま受け入れていました。
動けていた頃のことと見比べたところで、何も始まらないし、これからのこと。
今、ここに生きていることだけ考えていました。

本来、それでいいんだって思うのだけどな。。。
でも、それじゃいけないって思ってしまうってどういうことなのだろう。。。

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このページは、Nipopoが2012年9月17日 02:12に書いたブログ記事です。

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