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妊婦血液で胎児のダウン症診断...国内5施設で

妊婦の血液で、胎児がダウン症かどうかがほぼ確実にわかる新型の出生前診断を、国立成育医療研究センター(東京)など5施設が、9月にも導入することがわかった。

 妊婦の腹部に針を刺して羊水を採取する従来の検査に比べ格段に安全で簡単にできる一方、異常が見つかれば人工妊娠中絶にもつながることから、新たな論議を呼びそうだ。

 導入を予定しているのは、同センターと昭和大(東京)、慈恵医大(同)、東大、横浜市大。染色体異常の確率が高まる35歳以上の妊婦などが対象で、日本人でのデータ収集などを目的とした臨床研究として行う。保険はきかず、費用は約20万円前後の見通しだ。

 検査は、米国の検査会社「シーケノム」社が確立したもので、米国では昨年秋から実施。妊婦の血液にわずかに含まれる胎児のDNAを調べる。23対(46 本)ある染色体のうち、21番染色体が通常より1本多いダウン症が99%以上の精度でわかるほか、重い障害を伴う別の2種類の染色体の数の異常も同様にわ かる。羊水検査に比べ5週以上早い、妊娠初期(10週前後)に行うことができる。
(2012年8月29日10時04分 読売新聞)


私自身、遺伝子の異常で産まれてきた身体なので、身につまされる
ニュースでした。ある意味、当事者でもあるので、正直、色々と考えてしまいます。

もし、私が誰かと結婚して、子どもが授かったとしたら、3/4の確率で同じ障がいを持って産まれてきます。私の病気も胎内でわかりますし、体外受精で産み分けも出来ます。韓国では既にやっているし、同じ病気をもったタレントが産み分けで健康な赤ちゃんを授かったというニュースが流れたりもしています。そして、この技術は、日本でもやろうと思えばできる技術で、隠れてやっている病院もあるのではないかとも言われています。

自分自身、辛い思いをしてきたから、子どもも同じ目にあうことが、本当に良いのかどうか、正直、迷うことでもあるし、それは、母親となる人ととことん話し合うことになるだろうと思っています。

でも、そうやって考えていても、やっぱり、自分自身の中から出てくる答えは、「順番が逆だ」なのです。医療技術だけが勢いよく発展してしまっている。なのに、社会環境や人の生き方、精神レベルは、そこにちゃんと追いついていない。医療技術をこういう形で使う前に、社会環境そのものや、人の生き方、価値観そのものを変えることの方が先だと思うのです。

親であれば、「健康な子どもを産みたい」という気持ちはわからないわけではない。だけど、でも、それ以前に、どんな命であってもかけがえのない存在であるという原点に達していないことも事実であり、その部分をしっかりと達していないうちに、医療という目線のみで、判断されて、区分けされてしまうことが、どのような事態を引き起こすのか、、、、正直、ゾッとします。

今、現時点でさえ、ダウン症などわかっても産むことを選択した家族に、ソーシャルワーカーなどとっかえひっかえ家に訪れ、堕ろすようにとしつこく迫られるという話をまことしやかに聴いたりします。もちろん、そうやって説得されるのは、今の社会環境が、障がい者に対して、優しくないし、辛い現実を突きつけられるからということもあるのでしょうし、お金もかかるし、大変な思いをするからというのもあるのでしょうが、優しくない、冷たい社会環境があること自体がおかしいのであって、障がいをもった子が産まれることが悪いわけでもなんでもないのです。その部分を本末転倒状態で押しつけること自体、おかしい話なのです。

「医療」というものを否定するつもりは、全くないのだけど、それ以前に、命とは、人間とは、生とは、死とは、、、その部分をしっかりと見つめられる世の中であってほしいし、それをなくして、「医療」というものが存在して欲しくないとそう思います。
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前から書こうと思っていたこと。
さくっと書いてみます。

「インクルーシブ教育」で特別支援はどう変わるの?(Benesse教育情報サイト)

私、昔から言ってきたことがあります。
前にもブログで書いて、障がいを持っている人、ご本人から色々と言われましたが。。。。

でも、改めて言います。

今までのような特別支援学校は、必要無い。

キツイ言葉ですが、日本のこの制度は、「障がい者の教育を支援する」という表向きは善意的に見えますが、その善意という名を借りた障がい者の隔離政策だと思っています。

もし、隔離ではないというのであれば、なんで今まで、

「障がい者は原則として特別支援学校、並びに学級に入学させる」

なんていう方針が出てくるのでしょうか?
何をどこで学ぶかは、あくまで、個々が選択し、それぞれがそれぞれであるべきなのに、なんで、さも当たり前のように、障がいの有無によって、学ぶ場所を指定されないとならないのでしょう。
しかも、医学的な内容まで事細かく指摘され、その人達を障がい者とする、とまで位置づけまで行っているのです。

私が幼稚園、小学校に進学するときも、さんざん「養護学校(今でいう特別支援学校のこと)へ」と薦められました。
親も私もそれを拒否。
最終的には、当時住んでいた市にある障がい者団体などの力を借り、何とか普通学級へ進学できました。
でも、もし、その支援がなかったら、私も養護学校へ行かされていたでしょう。

先進国で、障がい者を原則として特別支援学校、並びに学級に入学させるなんて方針を打ち出しているのは、私が知る限り、日本だけです。
先進国では、自閉症や重複障がい(幾つかの障がいが重なっていること)など、特別な環境や技術がないとならない場合を除き、インクルーシブ教育(障がい 者を普通学級へ入学させて一緒に教育させること。または、一緒に教育が受けられるように支援すること。)が積極的に行われています。

例えば、アメリカは、2000年の時点で、一部の保守的な州を除き、普通学級への入学は50%を超えています。
なぜ、そこまで積極的なのか。
アメリカ憲法そのものが、性別や人種や障がいなどによって、区分け、隔たりを許しておらず、皆、同じ場所で、同じ権利を得、同じ教育を受けることを保証しているからです。
だから、ケネディー大統領以降、法律として積極的に教育現場を改善し、インクルーシブ教育を推し進めてきました。

これと同じように、イギリス、フランス、イタリアなど、他の先進国も同じように特別支援学校の様な施設を減らし、普通学級への入学を増やしていっています。
イタリアは、普通学級への進学率は100%近かったと記憶しています。

勿論、知的障がいなど学習困難な場合もあります。
その時も、障がい者本人や家族の意向をくみ取った上で、普通学級への進学を望むのであれば、リソースルームなどといった補完教育やカウンセリングを併せて行うことで、推し進めています。
そういう意味での支援学校、学級は必要だと思います。

私は、この日本の障がい者教育のやり方そのものが、障がい者と健常者を、遠くわけ隔てる元凶だと思っています。
両者がわかり合えない元凶だと思っています。

小さい頃から、別々の部屋、別々の施設で暮らすから、いつまでたっても、誤解や偏見が絶えないのです。

健常者は障がい者を知らず。
同じように、障がい者は健常者を知らないのです。

一緒に暮らす術も、助け合う術も何もしらないのです。
だから、ますます、両者の間が開いていく。

これは、障がい者の権利としてだけではないです。
障がい者としての最大の義務でもあると思います。

そう。
社会の一員として、障がい者が生きていくための義務です。

前にあげた発達障がい者が起こした事件も、防げたかもしれないと思っていますし、障がい者の就職率の低さなども、これらのせいではないかと思っています。
だからこそ、このわけ隔てた教育のやり方そのものを見直していくべきだと、ずっと、思っていました。

小さい頃から隔離してしまうことで、社会の一員だという体現的に自覚さえ出来ず、自分自身の存在価値もわからず。
その為、実際に社会に出たとき、混乱してしまうのです。
だから、ますます、引きこもってしまう。

フランスでは、インクルーシブ教育により、障がい者全体の学力が向上し、障がい者に対する偏見や差別も減り、就職率もアップしたとの事例があるそうです。

日本でも、戦前は、障がい者も健常者も小学校から一緒に学んでいました。
勿論、いじめもあったそうですが、障がいを持った子がお漏らしをしたら、冷やかしながらも誰かが助けていたそうです。
でも、戦後、養護学校というものが出来るようになり、障がい者は動物園のオリの中の動物を見るかのように、好奇の目に曝されたそうです。

戦後、養護学校への進学を推し進めていく国に抵抗し、普通学級へ入学させることという運動は、昔から存在していました。
ある家族もそうやって子どもを普通学級へ進学させました。
でも、そうやって普通学級へ入学した障がい児が、周りからの好奇の目に絶えずさらされ、苦しみ続け、最後には自殺した人達もいました。

だからといって、このまま、隔てたままで良いとは思えません。
障がい者も社会の一員だとするならば、小さいころから、体験させていくことが必要だと感じます。

隔てるから尚更、事態が悪化していくのです。
好奇の目ではなく、一緒に暮らしている仲間として向かい入れる準備をさせるには、小さい頃から体験として、学んでいく必要があると思います。

日本においても、やっと、中央教育審議会が「見直すべき」と結論を出し、文科省への報告書が出されました。
この動きは、喜ばしいことです。

でも、まだまだ、一歩目だと感じます。

色々な問題があると思います。
でも、これも、すべてをひっくり返してでも、取り組むべき課題だと感じます。

100人に1人は何らかの障がいを持って産まれてきています。
後期障がいを含めれば、全国民の5%前後が障がい者です。
これから高齢化や医療技術の発達でますます増えていくでしょう。

そして、今、盛んに言われている発達障がいも含めれば、もっと、増えます。
数字的にはその10倍近くになるのではないかとも言われています。

今、隣にいる人が障がいをもっているかもしれない。
なのに、こういう隔たり、区分けが、今更必要なのでしょうか?

前に書いた様に、自殺した障がい者がいるのと同じに、普通学級へ入学した障がい者のすべてが、プラスになったかといえば、そうでないと思う。

でも、私は、心から幸せだったと感じています。
そこから学んだことは、大切な宝だと感じています。
いじめや差別も沢山あった。
私は骨の折れやすい病気なので、友達とぶつかればすぐに入院でした。
でも、今となっては、それらすべての経験が今の自分のすべてを形成してくれました。
共に生きる楽しさも苦しさも知ることができました。
助け合うことの大切さも知ることも出来ました。
だから、とても、ありがたい経験をさせてくれたと、心底思っています。

障がいの程度は、100人いれば100通りあるので、かなり難しい問題だと思うけど。
でも、障がい者も健常者もそこから逃げていたのでは、何も改善しないと思うのです。
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姉刺殺の被告に求刑上回る懲役20年の判決(2012年7月30日21時34分 読売新聞)

 昨年7月、自宅を訪ねてきた姉(当時46歳)を包丁で刺殺したとして殺人罪に問われた大阪市平野区の無職大東一広被告(42)の裁判員裁判の判決が30日、大阪地裁であった。

 

 河原俊也裁判長は、大東被告が広汎性発達障害の一つである「アスペルガー症候群」だと認定。「社会内にこの障害に対応できる受け皿が用意されていない現状では、再犯の恐れが強く心配される」として求刑(懲役16年)を上回る懲役20年を言い渡した。

 大東被告は同月の逮捕後、大阪地検の精神鑑定で、この障害があると診断された。地検は刑事責任能力に問題はないとして昨年11月に起訴。公判で大東被告は罪を認め、弁護側は、犯行には障害が影響したと主張。保護観察付きの執行猶予判決を求めた。

 判決で河原裁判長は「約30年間、自宅に引きこもっていた被告の自立を促した姉に恨みを募らせた」などと動機を認定。障害の犯行への影響を認めたが、「量刑で大きく考慮することは相当でない」として量刑面の弁護側の主張を退けた。

 一方で、障害に対応できる受け皿が社会に整っていないとの認識を示し、「十分な反省のないまま社会復帰すれば、同様の犯行に及ぶことが心配される」と指摘。量刑判断に社会秩序の維持の観点も重要として「殺人罪の有期懲役刑の上限で処すべきだ」と述べた。

 ◆アスペルガー症候群◆ 生まれつきの脳機能障害が原因とされる。著しい言葉の遅れや知的障害は見られないが、対人関係の構築や感情のコントロールが苦手とされ、周囲から理解されにくい面がある。

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この記事、かなり、考えさせられました。

ここには書いていないけど、生き残った家族でさえ受け入れを拒否したそうです。

ネット上では、英断だったという意見と、こんな判決が人権違反であってはならないっていう意見と色々ですね。
色々と意見があって当然だし、両者の意見とも正しいように思います。

山本譲司さんの本「累犯障害者」という本を読むとニュースには絶対にならない一面を読むことができます。
再犯の恐れがあるなしの問題以前に、刑務所が行き場のない障害者の最後のセーフティーネットになっている現実も実際にあり、わざと犯罪を犯して、刑務所に入る人も後を絶たないそうです。

じゃ、そういう施設を増やしていけばいいのか。
確かにそうなのですが、それすらできないって知っていますか?

先日、ある上映会の席。監督さんとの質疑応答の時間で、お客さんのひとりが手をあげ突然「近くに障害者施設が出来ようとしたら、反対運動がおきた」と話していました。
途端、会場がどよめきました。監督も慌てて聞き返していました。

実は、これ実際にある話なのです。
要は、施設ができると不審者が増え犯罪が増える、時価が下がる、という、「えっ?」と耳を疑ってしまう言葉が、どこかしら出てくるそうです。
そして、それが大きくなり反対運動となる。

随分昔にNNNドキュメント『ふるさと東京を離れて』というのを見てびっくりしたのだけど、一時期、都では、反対運動をはじめとした地元の理解不足や時価 の高騰などにより、施設を増やすことが出来ず、苦肉の策として秋田に施設を建設し、身寄りのない障害者をその施設に送ることをしていました。
今でも秋田には東京都管轄の施設が点在しているそうです。

あまりに理解がなさ過ぎなのです。

勿論、犯罪は犯罪として裁かれるべきだとは思うけど、社会に受け皿さえあれば、いくらでも防げる犯罪が沢山あるのです。
障がいがあるなしにかかわらず、たった一つの「違い」から社会から弾かれてしまう人が沢山いるのです。

だから、司法が悪いとか、法律がどうのではなく、社会全体が起こした事件なんだということを自覚した方が良いと思うのです。
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京都で車の暴走事故が起きてからなのか。
又は、どこかの市長さんのチルドレンたちが変な教育条例案をつくって騒がせたからなのか。

最近、障害をテーマにした記事など、色々と目にする事が多くなった様な気がします。
どれを読んでも思うのだけど、他と違う事がどうしてここまで人を色々な形で苦しめ追い詰めてしまうのだろうと感じてしまいます。

見た目がわかる部分での違いもそうだけど、発達障害のような目に見えない部分での違いもまた、誤解という形で、見た目の違い以上に大変な状況があるのかもしれません。
勿論、障害を持つ持たないに限らず、ほとんどの人がどこかしら「他と同じであること」を願っているのかなって思うし、そうでなければならないと感じながら生きているのかもしれません。

一つでも「違うこと」「劣っていること」があっても悪い事、いけないことの様に取り扱われる。
全てが「一般化」され、あたかも全てがそうであるかの様に扱われ、そこからはみ出たらいけないと言われる。
そんな世界に生きているんだとそう思いますし、本人自身もそうであると、どこかしら感じて生きてしまっているように感じます。

昔ほどではなくなったとは思うけど、今でも、障害を持つと、本人も、そしてその家族や関係者も世間の目というものが痛いほど、苦しめてしまう現実があります。
勿論、実際に何があったわけでもなく、意識的にではないのかもしれないけど、どこかしらそんな空気に包まれてしまっているのは確かだと思う。

私が小さい時もやはりそうでした。
人前に出ること、目立つことは避けていたし、迷惑をかけること、ましてや、学校でいじめにあうことすら、タブーの様に扱われていました。

 いじめにあう=迷惑をかける

だったから。
いじめた本人よりもいじめられた本人の方が風当たりが悪くなってしまうことも多くありました。

親戚の間でさえも、やはり、風当たりが悪い事もあります。
血が繋がっていたとしても、その血縁の中で障害を持った人がいるということは、親戚全員に迷惑をかけるのではないかという雰囲気にさせてしまうのです。
これも、実際にそういうことがあるわけでもないにしてもです。

だから、私も、そして家族も、大変な想いをしてきたし、隠れて生きて来たという所も多くあったように思います。
道の真ん中を堂々と歩けるようになったのは、つい最近です。
自分の障害について、話せるようになったのも、つい最近です。

ただ、私の家族は、障害に対して、前向きに捉えていた所もあったので、マシな方でしょうね。
追い詰められた挙げ句に一家心中なんて、ざらにあります。
新聞に載っている記事なんて、一例でしかありません。

それが現実だと思います。

5月24日の朝日新聞の朝刊に載っていた稲川淳二さんのインタビュー記事。
胸に迫るモノがありました。
手をかける前に我に返って良かったと思うし、さぞかし、苦しい思いを持って生きていたのだろうと感じます。

稲川淳二_障害者が生きる_small.jpg
記事は、こちらで読めます→コピー記事「( インタビュー) 障害者が生きる タレント・稲川淳二さん」
元記事(全文閲覧は有料です)→「最低の父でした」障害者の親・稲川淳二さんに聞く

誰もが違っていて良いんだ。
違いが宝なんだ。
その違いをお互いが認めあえ、許し合えることが素晴らしいんだ。
誰もが共に生きられる世界を創っていこう。

こんな世界なんて、夢みたいな話なのかもしれません。
遠い世界なのかもしれません。

でも、誰もがこう思える世界を創りたいのです。
その為には、どんな法律を作ったとしても変わらないと思う。
意識そのものを180度変えるには、法律ではかわらないと感じます。

こういうことが、現実に起きていること。
辛い思いを持っている人が、身近にいるっていうこと。

そのことを誰もが意識し、誰もが自分のこととして、考えないとならないと思います。

そして、「差別は被差別者の意識からも産まれる」というのも確かで、本人や家族達の心からも「違う事への劣等感」を手放していかないとならないと感じます。
心に傷があると、なかなか出来ないことだと思うし、どうして抱え込んでしまいがちなのだけど。
でも、本当に今を変えるなら、必要不可欠な事だと思うし、もし、傷があるのなら傷があるで「傷がある」と正々堂々と言ってしまうこともある意味、必要なのだと思うのです。

違っていていいのです。
差があっていいのです。

違うこと、差があることが、悪いわけでもなく、問題があるわけでもなく。
その違いや差を認められないことが問題なのです。
悪いことだと、問題だと思ってしまうことが、おかしいのです。

同じでなくていいのです。
同じにしなくていいのです。

「障がいを生涯かけて生きる。それが私の役目であり、それが生きる目的。」


私が講演でいつも使っている決意の言葉。

そのことをちゃんと伝えられる自分でありたいし、そういう自分になりたいと、最近、さらに強く感じているこの頃です。


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もう、8月ですね~。
早いものです。
近況報告も兼ねてのまとまりの無い日記を書いてみます(笑)

暑いのはめっちゃ苦手ですが、台風やらなんやらで、意外に過ごしやすい日が多いので、何ともありがたいです。
完全に体調のバランスが崩壊していたのも、去年の今頃。
お腹はおかしいし、だるいしで、最悪だったのを覚えています。
土日は、友人とあったりはしているけど、無理せず、セーブモードでやっています。

先々週から、仕事場が変わり、設計関連の仕事から、品質管理の仕事になりました。
設計関連の仕事は、一秒の時間との勝負だったりするので、休む事すらもまず出来ない。
精神的も厳しいし、さすがに無理はさせられないと、会社側で提案してくれました。
設計関連は、開発主体のうちの会社としては最前線のもあたる場所。
やりがいはあった仕事だけど、でも、今も私の身体じゃ無理は出来ない。
正直、前の部署から離れがたいけど、今は、身体の事も労ってあげないとならないし、不安定な身体の私でも席を確保しておいてくれている会社側の提案を呑むことにしました。
先日、前の職場の上司から電話が自宅にあり、今でも気にかけてくれているし、今はこの恩をしっかりと受け止め、しっかりとお返ししたいと、仕事をこなしている毎日です。
だからといって、気の抜けない仕事も沢山あるし、覚えないとならないことも多いので、大変ですけどね。
新しい場所で、一つ、一つ、歩んでいこうと思っています。

先週、病院にいって、退院後の定期検診に行ってきたけど、やっぱり、「再入院、再手術」のことを言われました。
骨折の所は、今の所、予定通りの形で来ているし、腎臓も特に再炎症を起こしたりしているわけではないんだけど、問題は人工肛門。
前にも書いたように、私の場合、特殊中の特殊なケースとなってしまっていて、様子を見ていても、一向に良い方向に進まない。
だからといって悪い方向にも行っているわけではないんだけど、このまま行けば、悪い方向に行く可能性も大きくなってしまいそうなので、再入院と再手術をした方が良いのでは?と提案されました。

人工肛門をつくる時、内視鏡など色々と検査をしていって、腸の様子などを探り、緻密な計算を行うんだけど、私の場合、大腸破裂の状態だった為に、緊急処置として行いました。
だから、土壇場の判断に任せた状態になっている事も確かなのです。
お腹を開けたら予想も付かないような状態だったそうで、腸の位置も酷かったらしく、他の臓器などとの癒着も激しく、変に動かしたり、メスを入れたり出来る状態でもなく、普通の人工肛門の手術よりもかなり大変なものだったそうです。
だから、もう一度、しっかりと計画を練り直して、ゼロからスタートのつもりで、再度、再整形を行おうという事になっています。

まだ、予定は未定だし、本当にやるのか、もしくはやれるのか、まだも決まっていないし、家族としても本人としても、回答保留にしているのですが。。。。
今の状態のままじゃやっぱり辛いし、なかなか、遠出が出来ないでいるのもこのせいだし。
今の状況が少しでも改善し、希にある酷い痛みなどが少なくなるのであれば、やるしかないのかなって思っています。

でも、、、、考えれば考えるほど、やっぱり、不安ですね。。。
去年以上の大出術になりそうなので。
気管挿管が出来ない身なのも、不安を煽る。
(骨形成不全の為、首の骨が変形していて、かなり深い全身麻酔を行う時の人工呼吸の為の挿管がやりにくいのです。去年も意識がある中、ゲーゲー言いながら1時間半もやっていた・・。)
10日間に三度の手術をしていれば、怖いモノはないように思うのだけど、あの時は、無我夢中で考える余裕もなかったから怖いということも言っている暇もなかった。
だけど、考える時間も余裕もある今は、やっぱり、不安にさせられます。
ここまで来たのを、また、ゼロからやり直しというすごろくの振り出しに戻るに近い気持ちでもあります。

土日とかに友人とあったり、イベントに参加したりすると、人と逢う事が楽しく、人と交わることの喜びを感じると、やっぱり、前に進まないとっていう気持ちにさせられ、勇気になります。
誰かと共に生きる為に自分は産まれてきたのだし、誰かと共に生きることの大切さを伝え、自ら生きていく事を決して諦めたくないし、これからもそう生きていきたい。
だから、こんな所で悶々としているぐらいなら、少しでも可能性のある道へ進むためにジタバタすることを選びたいと思うのです。

先日やったイベントの打ち上げが、先週あったのだけど、やっぱり、生きなきゃって改めて思った。
やっぱり、前に進まなきゃとそう改めて感じた。

だから、手術も受けようかと、思っています。
9月始めから計画を練っていって手術となるので、たぶん、9月半ば~10月中になると思います。
今年も、誕生日は、ほぼ病院食決定ということで(笑)
毎年、誕生日に、何やってんのかね~。

という感じかな。

今週末は、高校の同窓会に参加してきます。
実は、初参加です。
あまり、良い思い出が無いせいか、今まで、学生の頃の自分を振り返るようなことは避けてきた所もあり、参加辞退してきました。
高校の時は、いじめられていたわけでも無く、学園祭とか楽しかった部分もあるし、少ないけど友達も何人かはいたのだけど、どこか周りから取り残された様な、独りぼっちの様な負の感情の方が強くて。
でも、長期入院の事など、色々と考えが変わって、今回は参加してみようと、決心しました。
幹事役は、同じクラスメートの人で、先日、お葉書をくれて、私がいたクラスが一番出席率が良いみたいです。
先生方も来るので、今から、ドキドキしています・・・。

とまぁ、やっぱり取り留めなく、まとまりのない日記になってしまいました(笑)
なんだかんだと色々とあるし、毎日大変だけど、その毎日、毎時を思う存分ジタバタして生きたいと思う今日この頃です。。。
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病院のソーシャルワーカーと相談したら、障がい者手帳を取り直すことに。
人工肛門関係で、一度、申請したのだけど、骨形成不全でも新たに。
まだ、どうなるかわからないけど、うまくいけば、今までより2階級特進になりそう(笑)

今までほとんど使うことなく12歳の頃に5級から3級に上げるために再所得したっきりで引き出しにしまい込み、役所がらみの書類提出時のコピーをする以外は真っ新状態。
(5級とは、普通の小学校に入るための条件に通すため得た階級だったので、正式に3級で取り直した)
本籍が変わった時に変更した記述があるぐらいかなぁ。。。

公共交通補助とか色々あるので、提示すれば割引とかあるんだけど、私自身、働きに行けたし、物理的にも金銭的にもそこまで不自由ではなかったので使った試しがなく。
障害者年金や自動車税免税で提示する以外では、以前、たまたまカバンの中に入っていて施設の割引を介助者一名分も含めてしてもらったぐらいです。

以前、タクシーに乗った時、「手帳を出して」って言われたけど持っておらず、運転手さんにえらい怒られたことがあった(笑)
運転手さん曰く、「せっかくみんなの善意(税金)で助け合う為の手帳なんだから、ちゃんと障がい者割引とか利用しなきゃダメだ。」と。

確かにそうだ。
世の中、障がいを持っているのに手帳を全く発行してもらえない人もいます。
だから、自分は恵まれているというか、とても有り難い話。

講演でも話している、落ち込んでいる私に「あなたのままで大丈夫だよ」と言ってくれた旧友も、同じ事を言っていた。そして、「援助を頂くというのも、権利であり、義務であり、役割なんだ」と。

以前は誰かに助けてもらうなんて出来ないし、迷惑をかけたくないって思って、そういう支援を頂くことは、悪いことなんだと、心のどこかで思っていたところもあり、「手帳を持たない主義」を貫いていた。
でも、こういった支援を頂くというのもある意味、自分に課せられた役割の一つ・・・パズルのピースの凹んだところがなければ、出っ張りを生かせないし、社会というパズルを完成させられない・・・かもしれないと最近思ってます。

一連の病気やらなんやらで階級が上がり、障害者年金も含め結構な額の支援を頂くことになる。
これも皆さんが汗水流しながら働いたりして得た血税からできている。

とても有り難い話だし、大切に想いながら使っていきたいと感じています。 
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