ニュースの最近のブログ記事

NHKで出生前診断の特集をやっていて見ていた。
前にブログで、その事を書いたけど、

「命の選別」

ブログのアクセスログを見ると、「出生前診断」や「ダウン症」などの検索キーで検索して飛んできている人がいるので、みんな、何かしら気になっていることなんだろうなって思う。
産むにしても、堕ろすにしても、それぞれ、傷つき、もがき、苦しんでいることにはかわりないのだろうし、この特集を見ていても、凝視できないぐらいの苦しみが伝わって来て、胸が痛くてしかたなかったです。
だから、一方的には、どうのっては言えないのだけど。
でも、前に書いたブログで言ったように、やっぱり、"何か"がおかしいのです。
その"何か"でみんな苦しみ、傷ついている。
それでも産みたいのに、出来ないという"何か"に苦しんでいる。

以前、10月8日にやるイベントのスタッフミーティング の前で、早めに集まった友人と話していたのだけど、この問題とリンクするのが、「尊厳死」の話だと思っています。
イギリスで、尊厳死を希望する脳卒中で全身麻痺の患者が裁判を起こし、結局、認められず。その方は、餓死という形で亡くなりました。
イギリスを含め欧州では、この手の議論は盛んで、裁判が幾度も起こされ、却下されると尊厳死を認めているスイスに行って亡くなるというツアーの様なものまであります。

生も死も意味があるとは思うし、終末期医療における積極的治療の中止という観点から尊厳死を語られるのであれば良いとは思うのです。
ですが、ちょっと足の置き場を間違えれば「障がいをもつ。動けなくなる。」=「世の中のお荷物」という根底に流れてしまっている精神状態そのものを助長させるだけに過ぎないと私は感じてしまうのです。
現に日本で超党派議員による尊厳死における法律では、第一案では終末期医療における積極的治療の中止を語っていますが、第二案では障がい者や高齢者に対する尊厳死の許可まで幅広く語られていまっていて、私なんかはゾッと感じてしまいます。

動けなかったら、動けなくなったら、人間じゃないのでしょうか?
五体満足でなかったら、社会のお荷物なのでしょうか?

確かに、色々と費用も人手もかかることだとは思うし、きれい事だけではすまないとは思うのですが、親族だけが介護するとかいうから難しく、苦しくなるのです。
みんなで力を持ち寄り、みんなで助ける。
その考え方さえあれば、一つ、一人の負担が軽くなると思う。

昔、重度の精神障がいで仕事にも長い間行けず引きこもり状態になっていた友人がいて心配になって逢いにいったことがあります。その時に友人がぼそっと「タ ダ飯喰らい、穀潰しは恥さらしだ。死んだ方が世の中のためなんだ」と言った言葉が胸に突き刺さりました。今でもそのときの表情や声を覚えています。

イギリスで尊厳死を認められず餓死することを選んだ男性は、Twitterで「生きていてよかった」と最後のメッセージを残していたけど本当なのかな。

自分も2年前、寝たきりを宣告され、下の世話さえも出来ない状況が何ヶ月か続いたけど、「生きているならそれで良い」って悟って、今の自分をそのまんま受け入れていました。
動けていた頃のことと見比べたところで、何も始まらないし、これからのこと。
今、ここに生きていることだけ考えていました。

本来、それでいいんだって思うのだけどな。。。
でも、それじゃいけないって思ってしまうってどういうことなのだろう。。。
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911。

東日本大震災から1年半。
多くの人が、今という時代を祈り続けた日になったと思います。

そして、私にとっての911。
911
やっぱり、後にも先にも、地球の裏側で起きた、この光景でした。
それは日本時間の21時45分に起き、世界の本当の姿を表した瞬間でした。

テレビでその姿を見たとき、今まで見ていた世界は幻想でしかなく、本当はもっと混沌で、もっとドロドロした姿をしていたことを知りました。
私自身、その頃には既に某団体でボランティア活動をし、色々な啓発イベントにスタッフとして参加したり、勉強会に参加したりしていたのだけど、「誰かのため」ではなく、自分探し、自分の居場所探すだめだけの行動でしかありませんでした。

でも、この瞬間、私の中に「誰かの為に」が産まれました。

誰かの為・・・・・誰かと共に生きること。
全ての人々が、この世界で共に認め合い、共に助け合い、共に生きていける世界を創りたい。
そう思い、そう突き動かされたのが、この日のこの瞬間。

だから、私に取って、この日は、大切な日で、大事な日で、欠かせない祈りの日だと思っています。

帰ったらしずかに過ごしていました。
そして、21時45分に祈りを捧げました。

全ての命に向けて。
そして、自分の志を再確認する為に。

あれから何か変わったのかな。
あの日から世界は激動の時代になり、今でも、多くの争いが起き、多くの人が涙と落とし、命を落としている。
日本では、1年半まえに大震災が起き、多くの人が亡くなり、泣き、悲しみ、そして、今なお、多くの人が苦しんでいる。

人の中のエゴは、今でも消えることが無く、それを見る度に悲しい想いもするのだけど。
でも、それでも少しずつ、少しずつ、愛の本当の意味を知り、生きる意味を知り、気づき、自覚し、目を覚まし、産まれ変わっていると、少しでも、ちょっとでも信じて今を生きていたいと思います。

これから何が起きるのか。
そんなこと、何一つわからないのだけど。
何が起きたとしても、恐れではなく、愛で生きようと思います。

誰もが悲しくて泣くことがないように。
笑顔が少しでも増えるように。

自分が今できることを精一杯やり遂げて、祈り続け、生きていきたいと改めて思う。

そんな911の一日でした。

最後に、だいぶ前に創ったビデオを載せておきます。

前半は、私が日本からバックアップするという形で手伝わせて頂いたアフガニスタン支援での模様と、後半は同じくアフリカ・ザンビアのHIV孤児達の支援の模様です。
最後に映る地雷地に咲く花の様に、誰かの希望で有り続けたい。
そう思います。


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妊婦血液で胎児のダウン症診断...国内5施設で

妊婦の血液で、胎児がダウン症かどうかがほぼ確実にわかる新型の出生前診断を、国立成育医療研究センター(東京)など5施設が、9月にも導入することがわかった。

 妊婦の腹部に針を刺して羊水を採取する従来の検査に比べ格段に安全で簡単にできる一方、異常が見つかれば人工妊娠中絶にもつながることから、新たな論議を呼びそうだ。

 導入を予定しているのは、同センターと昭和大(東京)、慈恵医大(同)、東大、横浜市大。染色体異常の確率が高まる35歳以上の妊婦などが対象で、日本人でのデータ収集などを目的とした臨床研究として行う。保険はきかず、費用は約20万円前後の見通しだ。

 検査は、米国の検査会社「シーケノム」社が確立したもので、米国では昨年秋から実施。妊婦の血液にわずかに含まれる胎児のDNAを調べる。23対(46 本)ある染色体のうち、21番染色体が通常より1本多いダウン症が99%以上の精度でわかるほか、重い障害を伴う別の2種類の染色体の数の異常も同様にわ かる。羊水検査に比べ5週以上早い、妊娠初期(10週前後)に行うことができる。
(2012年8月29日10時04分 読売新聞)


私自身、遺伝子の異常で産まれてきた身体なので、身につまされる
ニュースでした。ある意味、当事者でもあるので、正直、色々と考えてしまいます。

もし、私が誰かと結婚して、子どもが授かったとしたら、3/4の確率で同じ障がいを持って産まれてきます。私の病気も胎内でわかりますし、体外受精で産み分けも出来ます。韓国では既にやっているし、同じ病気をもったタレントが産み分けで健康な赤ちゃんを授かったというニュースが流れたりもしています。そして、この技術は、日本でもやろうと思えばできる技術で、隠れてやっている病院もあるのではないかとも言われています。

自分自身、辛い思いをしてきたから、子どもも同じ目にあうことが、本当に良いのかどうか、正直、迷うことでもあるし、それは、母親となる人ととことん話し合うことになるだろうと思っています。

でも、そうやって考えていても、やっぱり、自分自身の中から出てくる答えは、「順番が逆だ」なのです。医療技術だけが勢いよく発展してしまっている。なのに、社会環境や人の生き方、精神レベルは、そこにちゃんと追いついていない。医療技術をこういう形で使う前に、社会環境そのものや、人の生き方、価値観そのものを変えることの方が先だと思うのです。

親であれば、「健康な子どもを産みたい」という気持ちはわからないわけではない。だけど、でも、それ以前に、どんな命であってもかけがえのない存在であるという原点に達していないことも事実であり、その部分をしっかりと達していないうちに、医療という目線のみで、判断されて、区分けされてしまうことが、どのような事態を引き起こすのか、、、、正直、ゾッとします。

今、現時点でさえ、ダウン症などわかっても産むことを選択した家族に、ソーシャルワーカーなどとっかえひっかえ家に訪れ、堕ろすようにとしつこく迫られるという話をまことしやかに聴いたりします。もちろん、そうやって説得されるのは、今の社会環境が、障がい者に対して、優しくないし、辛い現実を突きつけられるからということもあるのでしょうし、お金もかかるし、大変な思いをするからというのもあるのでしょうが、優しくない、冷たい社会環境があること自体がおかしいのであって、障がいをもった子が産まれることが悪いわけでもなんでもないのです。その部分を本末転倒状態で押しつけること自体、おかしい話なのです。

「医療」というものを否定するつもりは、全くないのだけど、それ以前に、命とは、人間とは、生とは、死とは、、、その部分をしっかりと見つめられる世の中であってほしいし、それをなくして、「医療」というものが存在して欲しくないとそう思います。
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前から書こうと思っていたこと。
さくっと書いてみます。

「インクルーシブ教育」で特別支援はどう変わるの?(Benesse教育情報サイト)

私、昔から言ってきたことがあります。
前にもブログで書いて、障がいを持っている人、ご本人から色々と言われましたが。。。。

でも、改めて言います。

今までのような特別支援学校は、必要無い。

キツイ言葉ですが、日本のこの制度は、「障がい者の教育を支援する」という表向きは善意的に見えますが、その善意という名を借りた障がい者の隔離政策だと思っています。

もし、隔離ではないというのであれば、なんで今まで、

「障がい者は原則として特別支援学校、並びに学級に入学させる」

なんていう方針が出てくるのでしょうか?
何をどこで学ぶかは、あくまで、個々が選択し、それぞれがそれぞれであるべきなのに、なんで、さも当たり前のように、障がいの有無によって、学ぶ場所を指定されないとならないのでしょう。
しかも、医学的な内容まで事細かく指摘され、その人達を障がい者とする、とまで位置づけまで行っているのです。

私が幼稚園、小学校に進学するときも、さんざん「養護学校(今でいう特別支援学校のこと)へ」と薦められました。
親も私もそれを拒否。
最終的には、当時住んでいた市にある障がい者団体などの力を借り、何とか普通学級へ進学できました。
でも、もし、その支援がなかったら、私も養護学校へ行かされていたでしょう。

先進国で、障がい者を原則として特別支援学校、並びに学級に入学させるなんて方針を打ち出しているのは、私が知る限り、日本だけです。
先進国では、自閉症や重複障がい(幾つかの障がいが重なっていること)など、特別な環境や技術がないとならない場合を除き、インクルーシブ教育(障がい 者を普通学級へ入学させて一緒に教育させること。または、一緒に教育が受けられるように支援すること。)が積極的に行われています。

例えば、アメリカは、2000年の時点で、一部の保守的な州を除き、普通学級への入学は50%を超えています。
なぜ、そこまで積極的なのか。
アメリカ憲法そのものが、性別や人種や障がいなどによって、区分け、隔たりを許しておらず、皆、同じ場所で、同じ権利を得、同じ教育を受けることを保証しているからです。
だから、ケネディー大統領以降、法律として積極的に教育現場を改善し、インクルーシブ教育を推し進めてきました。

これと同じように、イギリス、フランス、イタリアなど、他の先進国も同じように特別支援学校の様な施設を減らし、普通学級への入学を増やしていっています。
イタリアは、普通学級への進学率は100%近かったと記憶しています。

勿論、知的障がいなど学習困難な場合もあります。
その時も、障がい者本人や家族の意向をくみ取った上で、普通学級への進学を望むのであれば、リソースルームなどといった補完教育やカウンセリングを併せて行うことで、推し進めています。
そういう意味での支援学校、学級は必要だと思います。

私は、この日本の障がい者教育のやり方そのものが、障がい者と健常者を、遠くわけ隔てる元凶だと思っています。
両者がわかり合えない元凶だと思っています。

小さい頃から、別々の部屋、別々の施設で暮らすから、いつまでたっても、誤解や偏見が絶えないのです。

健常者は障がい者を知らず。
同じように、障がい者は健常者を知らないのです。

一緒に暮らす術も、助け合う術も何もしらないのです。
だから、ますます、両者の間が開いていく。

これは、障がい者の権利としてだけではないです。
障がい者としての最大の義務でもあると思います。

そう。
社会の一員として、障がい者が生きていくための義務です。

前にあげた発達障がい者が起こした事件も、防げたかもしれないと思っていますし、障がい者の就職率の低さなども、これらのせいではないかと思っています。
だからこそ、このわけ隔てた教育のやり方そのものを見直していくべきだと、ずっと、思っていました。

小さい頃から隔離してしまうことで、社会の一員だという体現的に自覚さえ出来ず、自分自身の存在価値もわからず。
その為、実際に社会に出たとき、混乱してしまうのです。
だから、ますます、引きこもってしまう。

フランスでは、インクルーシブ教育により、障がい者全体の学力が向上し、障がい者に対する偏見や差別も減り、就職率もアップしたとの事例があるそうです。

日本でも、戦前は、障がい者も健常者も小学校から一緒に学んでいました。
勿論、いじめもあったそうですが、障がいを持った子がお漏らしをしたら、冷やかしながらも誰かが助けていたそうです。
でも、戦後、養護学校というものが出来るようになり、障がい者は動物園のオリの中の動物を見るかのように、好奇の目に曝されたそうです。

戦後、養護学校への進学を推し進めていく国に抵抗し、普通学級へ入学させることという運動は、昔から存在していました。
ある家族もそうやって子どもを普通学級へ進学させました。
でも、そうやって普通学級へ入学した障がい児が、周りからの好奇の目に絶えずさらされ、苦しみ続け、最後には自殺した人達もいました。

だからといって、このまま、隔てたままで良いとは思えません。
障がい者も社会の一員だとするならば、小さいころから、体験させていくことが必要だと感じます。

隔てるから尚更、事態が悪化していくのです。
好奇の目ではなく、一緒に暮らしている仲間として向かい入れる準備をさせるには、小さい頃から体験として、学んでいく必要があると思います。

日本においても、やっと、中央教育審議会が「見直すべき」と結論を出し、文科省への報告書が出されました。
この動きは、喜ばしいことです。

でも、まだまだ、一歩目だと感じます。

色々な問題があると思います。
でも、これも、すべてをひっくり返してでも、取り組むべき課題だと感じます。

100人に1人は何らかの障がいを持って産まれてきています。
後期障がいを含めれば、全国民の5%前後が障がい者です。
これから高齢化や医療技術の発達でますます増えていくでしょう。

そして、今、盛んに言われている発達障がいも含めれば、もっと、増えます。
数字的にはその10倍近くになるのではないかとも言われています。

今、隣にいる人が障がいをもっているかもしれない。
なのに、こういう隔たり、区分けが、今更必要なのでしょうか?

前に書いた様に、自殺した障がい者がいるのと同じに、普通学級へ入学した障がい者のすべてが、プラスになったかといえば、そうでないと思う。

でも、私は、心から幸せだったと感じています。
そこから学んだことは、大切な宝だと感じています。
いじめや差別も沢山あった。
私は骨の折れやすい病気なので、友達とぶつかればすぐに入院でした。
でも、今となっては、それらすべての経験が今の自分のすべてを形成してくれました。
共に生きる楽しさも苦しさも知ることができました。
助け合うことの大切さも知ることも出来ました。
だから、とても、ありがたい経験をさせてくれたと、心底思っています。

障がいの程度は、100人いれば100通りあるので、かなり難しい問題だと思うけど。
でも、障がい者も健常者もそこから逃げていたのでは、何も改善しないと思うのです。
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姉刺殺の被告に求刑上回る懲役20年の判決(2012年7月30日21時34分 読売新聞)

 昨年7月、自宅を訪ねてきた姉(当時46歳)を包丁で刺殺したとして殺人罪に問われた大阪市平野区の無職大東一広被告(42)の裁判員裁判の判決が30日、大阪地裁であった。

 

 河原俊也裁判長は、大東被告が広汎性発達障害の一つである「アスペルガー症候群」だと認定。「社会内にこの障害に対応できる受け皿が用意されていない現状では、再犯の恐れが強く心配される」として求刑(懲役16年)を上回る懲役20年を言い渡した。

 大東被告は同月の逮捕後、大阪地検の精神鑑定で、この障害があると診断された。地検は刑事責任能力に問題はないとして昨年11月に起訴。公判で大東被告は罪を認め、弁護側は、犯行には障害が影響したと主張。保護観察付きの執行猶予判決を求めた。

 判決で河原裁判長は「約30年間、自宅に引きこもっていた被告の自立を促した姉に恨みを募らせた」などと動機を認定。障害の犯行への影響を認めたが、「量刑で大きく考慮することは相当でない」として量刑面の弁護側の主張を退けた。

 一方で、障害に対応できる受け皿が社会に整っていないとの認識を示し、「十分な反省のないまま社会復帰すれば、同様の犯行に及ぶことが心配される」と指摘。量刑判断に社会秩序の維持の観点も重要として「殺人罪の有期懲役刑の上限で処すべきだ」と述べた。

 ◆アスペルガー症候群◆ 生まれつきの脳機能障害が原因とされる。著しい言葉の遅れや知的障害は見られないが、対人関係の構築や感情のコントロールが苦手とされ、周囲から理解されにくい面がある。

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この記事、かなり、考えさせられました。

ここには書いていないけど、生き残った家族でさえ受け入れを拒否したそうです。

ネット上では、英断だったという意見と、こんな判決が人権違反であってはならないっていう意見と色々ですね。
色々と意見があって当然だし、両者の意見とも正しいように思います。

山本譲司さんの本「累犯障害者」という本を読むとニュースには絶対にならない一面を読むことができます。
再犯の恐れがあるなしの問題以前に、刑務所が行き場のない障害者の最後のセーフティーネットになっている現実も実際にあり、わざと犯罪を犯して、刑務所に入る人も後を絶たないそうです。

じゃ、そういう施設を増やしていけばいいのか。
確かにそうなのですが、それすらできないって知っていますか?

先日、ある上映会の席。監督さんとの質疑応答の時間で、お客さんのひとりが手をあげ突然「近くに障害者施設が出来ようとしたら、反対運動がおきた」と話していました。
途端、会場がどよめきました。監督も慌てて聞き返していました。

実は、これ実際にある話なのです。
要は、施設ができると不審者が増え犯罪が増える、時価が下がる、という、「えっ?」と耳を疑ってしまう言葉が、どこかしら出てくるそうです。
そして、それが大きくなり反対運動となる。

随分昔にNNNドキュメント『ふるさと東京を離れて』というのを見てびっくりしたのだけど、一時期、都では、反対運動をはじめとした地元の理解不足や時価 の高騰などにより、施設を増やすことが出来ず、苦肉の策として秋田に施設を建設し、身寄りのない障害者をその施設に送ることをしていました。
今でも秋田には東京都管轄の施設が点在しているそうです。

あまりに理解がなさ過ぎなのです。

勿論、犯罪は犯罪として裁かれるべきだとは思うけど、社会に受け皿さえあれば、いくらでも防げる犯罪が沢山あるのです。
障がいがあるなしにかかわらず、たった一つの「違い」から社会から弾かれてしまう人が沢山いるのです。

だから、司法が悪いとか、法律がどうのではなく、社会全体が起こした事件なんだということを自覚した方が良いと思うのです。
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ブログ触るの久しぶりになってます(笑)
最近、フェイスブックかツイッターかどちらかで済ますことが多くて、、、。
すいません。

で、久しぶりに書く事は、とても、暗く、重たい話です。
書いておかないとって思うので。

大津市教育委員会は、「死に体」である|日々是口実-041

http://59s-hibikor.doorblog.jp/  より。


これを読んでというかニュースとかを見ていて思ったのだけど。

暴論だと思うけど、「いじめ」なんてなくなるはずないと思う。
「なくなる」なんて思っているうちは、多分、問題解決なんてできない。
そう思うのです。

「今の子は思いやりがない」とかなんとか言われるけど、そんなんじゃない。

100点でなければならない、完璧じゃないとならない、みんなと一緒でないとならない。

そんな「完璧主義」と「協調性」を求めるような教育をしているうちは、無理なんだと思うのです。
そこから逸脱することすら許されず、半ば脅迫されるような教育を毎日毎日うけていたら、自分への評価ばかりが気になり、自分を守るために、他人のことなんて置き去りにしないと生きていけなくなる。

そんな教育自体が「いじめ」そのもので、その教育自体が「いじめ」を育てる。
常に誰かが誰かをいじめるため、ネタを求めてさまよう。
「いじめる」ことで、自分の完璧さを証明できるから。
「協調性」を証明できるから。
少しでも劣っている人、逸脱している人を絶えず見つける。
で、見つけたら、いじめる。

とことん、いじめる。
みんなで一斉にいじめる。

だって、「完全主義」と「協調性」を重んじるんだから、誰もが「自分も誰かをいじめないと自分は社会から消されてしまう」という脅迫概念が生まれるのだから。
教室や職場といったある意味閉鎖空間であったら、尚更、助長される。

で、その傍らで「いじめをなくそう」と教育現場は声高らかに唱え、「いじめゼロ」が当たり前かのように言い始める。
だから、「いじめ」が起きると、「いじめ」をなくせなかった教育現場は完璧じゃなく、そこから落第したとレッテルが張られる。
それが怖いから隠蔽をはじめる。
「ここはいじめゼロのはずなんだから、あってはならないことだ」と口封じがはじまる。

そんな八方ふさがりの様な状況じゃ、いじめられっ子もまた、助けを求められなくなる。
いじめられているなんて、自分は完璧じゃないとレッテルを張るようなものだから。
「いじめゼロ」なのに、いじめられている自分は、周りに迷惑をかけているんだと思わされるから。

誰にも言えなくなる。
助けを求められなくなる。
全てが敵になる。
そして、追い詰められて自殺してしまう。


こんなピーンと張り詰めた「空気」が自然と漂っているのが、今の世の中なのだと思う。
いつも、誰かの目を気にして、怯えながらいきている。
また、誰もがそのことに気づいていないから、尚更、悪循環に陥る。
それに加え、子どもだと「自制する」ことができないことも多いだろうし、「傷つけてる」「傷ついている」なんていう感覚も薄ければ、尚更、拍車がかかる。


結局、誰でもいじめられる要素をもっているし、いじめる要素をもっている。
だから、誰がどちら側にたってもおかしくない。
理由なんて、なんだって言い。
理由なんて、あってないようなもの。

そういう観点に立ち、そう誰もが思わないと、いじめなんて解決できないし、なくならないと思う。

ある番組で、加害者側の名前などがわかってしまった為、の現場の関係者を洗い出して、みんなで糾弾しようと、ネットで躍起になっているけど、私からみると、同罪。
結局、同じ穴の狢。
形が変わって、「正義」という大義名分が加わっただけ。
結局、同じ「いじめ」の構図の中に埋没しているだけ。


私もいじめられる側にいたこともあった。
でも、その逆もありました。
いじめる側に立ったこともあるのです。
だから、こんなことを言えるのかも知れません。

今でこそ、何やってんだろうって、その時の自分が恥ずかしく恥ずかしくて、嫌悪感でしかないし、いじめにあったことより、いじめたことのあるっていう事実の方が、自分の中では、かなりウエイトが高い。
どうその罪を償えるのだろうと思う事があります。

正直、今更ですね。
言い訳にしかならない。

けど、なんでやったのかと問われるなら、やっぱり、こんな「空気」の中にいたなって思う。
誰かをいじめないと、自分がいじめられるから。。。怖かった。
「こんなことしたらかわいそう」っていう思いはあったけど、そんなことより、自分を守ることを優先させた。

自分も、そんな風に自分を守ることしか頭に無い弱い人間でしかないわけだし、いつ、どちらに転ぶかなんて、今でもわからない。
だから、毎日、毎時、問いかけながら生きていかないとって思うし、生きていこうとそう思う。
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大きなこと。
東北地方太平洋沖地震(東日本大震災、東北関東大震災)

沢山の命が失われようとしています。
私自身もとても、心が痛く感じてしまいます。
今なお、頑張っていらっしゃる方、踏ん張っていらっしゃる方が少しでも安らげるように心から祈って止みません。

3月11日。

退院からちょうど一ヶ月後。
家の中での行動が少しでも楽になるようにと業者さんに来てもらって手すりなどの設置工事をしてもらっていました。
いくつか業者さんと打ち合わせをして、私はリビングでくつろいでいました。
テレビでは、某知事の再出馬表明のシーンが流され、歓声など色々な想いが渦巻いていた。

その時、グラグラと揺れる感覚。
外を見ると電線が揺れている。

あ、、、地震か、、、

はじめは、そんな軽い感覚の中でいました。
いっこうに収まる事のない揺れ。
逆に大きくなっていく。
食器などがガチャガチャいいはじめ、モノが倒れたり、落ちたりする音と共に、ギシギシという家の軋み。
テレビでは、よくある主婦向けの情報番組中でしたが、そこの出演している人たちも、何事かと慌てだしている。
顔面蒼白の人もいた。

この長さと大きさ。
地震に対して、結構、度胸がある私でも心臓ドキドキで怖くなる。

ずいぶんの時間が経った気がする。
少しずつ落ち着きはじめた頃、家の改装工事に来ていた方々とかに声をかけてみる。
おじさん、かなり冷静(笑)
玄関に飾っていたこけしを必死に抑えながら、「いやー、揺れたねぇ~」って笑っていた。

数分おきに東京でも感じる余震。
余震を気にしながら工事も終了し、工事の方々が帰った頃、テレビを見始める。

津波だ、、、、。

時間が経つことに、状況が見え始める。
最初は楽観視していた私も、背筋が凍るような間隔を感じ始めた。

その日は、父親も帰ってくることが難しいようで、会社で待機かも、、、と電話がある。
(最終的には日付が変わって帰ってくることが出来たけど)

結局、朝方までネットやテレビを食い入るように見ていた。


あれから一週間以上が経った今。

地震や津波により、未だに陸の孤島と化し、マスコミ、政府も自治体、自衛隊、支援してくれている米軍なども把握しきれていないのか、被災者が餓死した、凍死したなど、悲劇的な情報も流れてくる。
都市部では少しずつ落ち着き初めてはいるけど、末端の方ほど、状況は悪化し、情報も人も物資も届かない所もあります。
一週間以上も救援物資が届かない人たちが未だに16000人もいるとのこと。
法律上、なかなか上手くいかないところもあるらしいですが、土地勘を持っている人がやれば安全を保つことは可能だと思うので、孤立地域に救援物資を空中投下などして、少しでも脱して欲しいと感じます。

そして、こういう時に、いつも思うのは、「障がいや病気を持った方とかご年配など、どうしているのだろう・・」と。
阪神・淡路大震災で被災された障がいを持った方は、未だに、生活が大変で、復興とはほど遠いとも聞く。

今回も、そうなってはいないかと思うのです。
地震があったとき、今までなら動いて、安全な場所に避難出来たけど、今の身体はトイレにいくのも大変な状況で、安全どころか、じっと時が過ぎていくのを見守るしかない。
津波が数分で襲ってきたら私なんて、一発だろうってそう感じます。

今回も、車いす、寝たきりの人は、一番最後まで避難出来ずにいて、未だに病院などに取り残されているところさえあると聞きます。
(しかも、お医者さんさえ避難していない所もある、、、勿論、身を守ることは人間として当たり前の行為なので、非難することは出来ませんが・・・)
避難出来たとしても、電気や水もないところでは、医療機器も使えないし、トイレさえ出来ない場合もある。

テレビにはあまりそこまでは映らないけど、非難している場に自分がいたら、生きていけるんだろうかとそう思ってしまいます。
地震では無事でも、避難場所で生きることが出来ないのではないかと・・・。

こう思うと、心が本当に痛く感じます。

だからこそ、こういうことから、弱者を守る為にも、原発の様な人間の力でコントロール出来ないものは必要ないし、命を視点に考えた生活環境や社会システム創りが必要な気がします。


それと、原発のこと。
言い出したらキリがありません。
不安要素は沢山あるし、憶測を語り出したら、無限大に増えていきます。
色々と情報が飛び交っていて、頭が痛い人もいると思いますが、専門家の意見を集約し、よくまとめてくれていますので、私は、田口ランディさんのブログに書かれていることを指針にして、今、どうすれば良いか考えていこうと思います(勿論、刻々と状況は変わりますし、この内容も不十分な部分がいくつか見られますが)
田口ランディさんのブログ → http://runday.exblog.jp/16073824/

今、一番、気がかりは、原発や避難所の状況もそうだけど、心の状態です。
子どもたちの心もそうだけど、大人も同じ。
心だけは、被災した、しないに関わらず、今、この時間、この世界に生きている全ての人に関わってくることだと思います。
「買いだめ、買い占め」という行為に走ってしまうのも、ある意味、心の不安がその理由にあると思うし、本人は「買いだめしている」とは全く思っていないかもしれません。

空気がぴーんと張り詰めています。
何となくだけど、そんな気がしています。
友人にメールをすると、厳しい心の環境の中、必死に抑えている言葉が並んでいる時があります。

こんな時なので、ネガティブな所にアンテナが伸びてしまうのも仕方ないし、危機を察知するのは間違っていないと思います。

ですが・・・。

深呼吸して下さい。
リラックスして下さい。
色んな思いがあるとは思うけど、少しでも手放してみて下さい。

端的な言い方かもしれないし、色んなところで携わっている方には申し訳ないですが。
今の状況は誰が悪いわけでもないと思います。
誰を責めても何も解決しないと思っています。

被災者の方々や現地で命がけで頑張っている方々のことを考えると、何も出来ない自分を責めたりしてしまう方もいると思いますが、何も出来ないからって、悪いことをしているわけでもないと思います。
あなたはあなたなんだから、あなたらしく生きれば良いのだと思います。

不安だったら、逃げたかったら、逃げてもいいし。
苦しかったら、情報など全てをカットして、逃避してもかまわないと思います。
泣きたかったら泣いても良いし、笑いたかったら笑えばいいと思います。

一番大切なのは、誰でもないあなた自身。
あなたが今をちゃんと生きている事。
それだけでいいのだと思うのです。
自分のことをまず第一にに考え、抱きしめて、守ってあげて欲しいとそう感じます。
みんなちゃんと繋がっていますから、あなたがちゃんと生きていれば、被災した人もちゃんと生きる力が伝わっていきますから。

日本は、世界は変わっていくと思っています。
全てのことに意味があると言うならば、今回のこともそうなのでしょう。
自分の出来ることを、ネットなどで集めて、明日に生かしましょう。
優しい気持ちを日本に、自分に集めて、生かしていきましょう。
大丈夫です。
きっと変わります。
だから、大丈夫です。

KOKIA Lacrima


歌詞→こちら
※中越沖地震の時、被災者の思いをくみ取って創った「私にできること」のカップリング曲です。
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タイガーマスク 善意の輪全国に 矢吹丈、桃太郎、肝っ玉かあさん... 

産経新聞 1月11日(火)15時46分配信

 矢吹丈に肝っ玉かあさん、桃太郎も-。プロレス漫画「タイガーマスク」の主人公「伊達直人」を名乗る匿名の寄付は全国的に広がっている。11日にはタイ ガー以外の"人物"からの届け出も判明したほか、贈り物もコメや文房具などランドセル以外にまで拡大。昨年12月からこれまでに寄付のあった施設は30カ 所を超えた。

 「そろそろおれの出番かな。入学おめでとう。矢吹丈」

 兵庫県姫路市八代東光寺町の児童養護施設「児童ホーム東光園」では10日夜、漫画「あしたのジョー」の主人公「矢吹丈」を名乗る人物からランドセルなどが寄付された。

 さらに、埼玉県越谷市役所には、昭和40年代に人気を博したテレビドラマ「肝っ玉かあさん」で知られる女優、京塚昌子さん(故人)名義でランドセル5個が、岡山市の児童養護施設2カ所には「桃太郎」名でランドセルときび団子が届けられた。

 このほか、山口県下関市の2つの児童養護施設には、「残念ながら私はタイガーマスクではありません」とする人物から新品ランドセル2個がそれぞれ届いた。

 一方、「伊達直人」からの贈り物の種類も広がりをみせている。

 和歌山県紀の川市では11日午前10時ごろ、「紀の川タイガーマスク」と名乗る人物が市役所を訪れ、中村慎司市長に「寄付して」と現金20万円入りの封筒を手渡した。

 京都市西京区の児童養護施設「積慶園」では同日、筆箱や鉛筆などが入った文房具セット8セットが届いているのを、職員が発見。松山市の中央児童相談所には「デザイナーの伊達直人」からパソコン用プリンター5台が贈られていた。

 また、山形県新庄市萩野の児童養護施設では、施設前の道路に、30キロ入りのコメ5袋、ネギ20本、白菜11個と現金1万円が置かれていたことが判明。

 金沢市の児童養護施設には10日午後、男性がメロンやイチゴなどの盛り合わせを届けた。職員から名前を尋ねられ「そんな者じゃないです」と立ち去ったが、盛り合わせの中に伊達直人名義の手紙があった。

【用語解説】タイガーマスク

 梶原一騎原作、辻なおき作画。昭和43~46年、雑誌「ぼくら」「ぼくらマガジン」「少年マガジン」に連載され、44~46年にはテレビアニメとしても 放映された。孤児だった主人公の伊達直人は、覆面レスラーのタイガーマスクとなって悪役相手に活躍。経営難だった自分が育った施設に対し、タイガーマスク であることを隠したままファイトマネーを寄付していた。

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タイガーマスク運動が全国に広がってますね。
こういう誰かを想って、何か行動に移すことってすばらしいと思う。

ただ、こういうことって、「流行ごと」であってはならないと思っています。

施設にいる子どもたちは、心に深い傷を負っている事が多いと聞きます。
「去年はタイガーマスクがランドセルを持ってきてくれたのに、今年は僕のところに来てくれなかった」とか、「他のところには来たのに私のところには来なかった」とさらに傷つくこともある。
なので、持続的に、平等にやっていかないといけないんだとか。

そして、与えられる事になれないように今後の自立にむけてもやっていかないとならない。

これは「国際支援」などにもいえることかもしれないけど、一番守ってもらいたかった両親から、大人の事情などで引き離されてしまった子どもの心って、それだけ繊細で微妙なことなんだそうです。

マスコミはネタ探しで、必死に色々と情報を集め回っているけど、そういうことをどこまで考えているのかなと、思っていたりします。
どうせやるなら、ちゃんと伝えて欲しい。
背景もなのもかも、しっかりと。
子どもたちの目線で。

誰もが考えて行かないと行けない日本の現状だと思うし、障がい者や高齢者などへの支え合いも含めて、誰もがタイガーマスクだと思って、困っている人がいたら、みんなで支え合う世の中になって欲しい。
そして、そのキッカケに今回の騒動がなってくれたらいいなと感じます。
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