2011年9月アーカイブ

9/19、明治公園で行われた「さようなら原発」集会。

大手メディアでは、なかなか扱われなかったけど、昨日の朝日新聞の朝刊に載っていました。しかも、想いの伝わるなかなか良い記事。

デジタル版は有料なんで日付が経つと読めないですが、転載記事があったので残しておきます。

もう、誰かが世の中を決めていく時代は終わったと思う。
私が、自分がこれからを決めていく時代にやっと変わってくれるとそう願いたい。

---------------

 

うねる直接民主主義-原発のあり方、私たちで考え、決めたい

(朝日新聞 2011/9/25朝刊)

 政権交代しても、首相の首をすげ替えても深まる政治の閉塞(へいそく)感。有権者の政治への冷笑的な態度がそれに拍車をかけてきた。

 だが、東京電力福島第一原発の事故を受けていま、もう政治家には任せておけない、自分たちに決めさせてほしいという「直接民主主義」の動きが広がりつつある。

 ■反対集会に「6万人」

地べたで仕出し弁当を広げる老婦人たちの間をすり抜け、つないだ手を離さない若いカップルの間を割り込んで前へ前へと歩を進めたが、ステージはなお遠く、スピーチを始めたノーベル賞作家・大江健三郎さんは2センチ大にしか見えない。

 「私らは(原発に)抵抗する意志を持っているということを、想像力をもたない政党の幹部や、経団連の実力者たちに思い知らせる必要がある。そのために何ができるか。私らにはこの民主主義の集会、市民のデモしかない」

 3連休の最終日だった19日の昼下がり、東京・明治公園で開かれた「さようなら原発」集会。日本の反原発運動では1986年のチェルノブイリ事故から2年 後の集会に参加した2万人が「空前絶後」とされてきたが、この日は主催者発表で6万人、警視庁調べで約3万人が集まった。

 旧来の集会の「熱気」とはやや違う。脱原発を訴えて事務所を辞めることになった俳優の山本太郎さんは「たくさんの署名は倉庫にぶち込まれるだけだ。デモを してもちょっと目障りと思われるだけだ。一番必要なのは市民の力。選挙区の代議士の事務所に行ってプレッシャーをかけよう」。

 東電や為政者への憤怒はある。ただ、参加者は原発事故を主義主張というよりも自分たちの生活の問題として考えようとしていた。

 その後のデモでは労組の「原発を即時廃止しろ!」というシュプレヒコールの間に「おいしい野菜が食べたいな、おいしい牛乳飲みたいな」との声が聞こえてくる。

 外国製のベビーカーをただゆっくりと押して歩く若い男女。隊列から離れてコンビニに立ち寄り、しばらくして戻る男性グループ。通りがかりの真っ白な高級車の窓が開き、隊列に手が振られた。

 どうせ社会は変わらないという諦めや「悪いのはアイツだ」という責任追及にとどまらず、「私はこういう社会に生きたい」という主語のはっきりした言葉が路上にあふれていた。

 ■国民投票、議員も賛同

大規模集会やデモが間接民主主義に対する漢方薬だとすると、国民投票は外科手術に近いかもしれない。

 市民グループ「みんなで決めよう『原発』国民投票」が先月27日に主催したシンポジウム。「今の代議制民主主義では原発問題は争点にならない」と杉田敦・法政大教授。

 飯田哲也・環境エネルギー政策研究所所長は「現代社会は極めて複雑。従来型の代議制民主主義で何か決められるというのはフィクションだ」と説く。宮台真司・首都大学東京教授は「人に任せて文句を言う、日本の政治文化を国民投票で変えたい」。

 興味深いのは、国会議員からも賛同の動きが出始めたことだ。みんなの党は先月、原発国民投票法案を提出。民主党の議員有志は議員連盟を結成した。代表格の桜井充政調会長代理は「もともと民主主義の基本は『直接』だ」。

 選挙で約束していない重大な問題が起きた時、本当に国会で決めてしまって良いのかという思いがあるという。

 市民グループは先月、各党首あてに原発国民投票の賛否を問う質問状を送った。公明党は「検討することは有用」、共産党は「慎重な検討が必要」。自民党は「国権の最高機関たる国会の軽視につながるとの懸念がある」と回答した。

 野田佳彦首相は所信表明演説で「一人ひとりの国民の声に、心の叫びに真摯(しんし)に耳を澄まします」と訴えたが、民主党は質問状に回答しなかった。(高橋純子)

シェアボタン: このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
去年の9月16日。
自宅で倒れ、救急車。
1週間の入院。

白旗を揚げてみたこと(16日~の入院)

ちょうど、一年になります。
完全に具合が悪かったのは、7月からだったんで、もっと前からだったんだけど。
あの時は、今の自分なんて、想像も出来ていなかったのかなって思うのだけど。
よくよく思い出してみると、何となくだけど、「もう、無理かもな・・・」って、変な予感みたいなのはあった記憶があります。

当時、

2010/10/9 『1/4の奇跡』&より子ライブ~みんながキラキラ輝くために~

のイベントに出演が決まっていました。
ですが、倒れたり、入院したり、手術とかが決まったりしていたんで、出演は無理かも・・・ということでと主宰者側と相談していました。
でも、フライヤーにまで名前が載っていたし、あまりに申し訳ないからということで、音声だけでも良いからメッセージを送りたいと私からお願いしました。

今だからいうけど、実は、最後にみんなにメッセージを残したい・・・遺書のような気持ちがあったんです。

当日、流れたメッセージは主宰者側の意向と併せるためにかなり削ったり内容を変えたりしましたが。
最初に録音したメッセージはかなり遺書めいた内容でした。
心の中のどこかで「もう、無理かな」っていう気持ちがあったんです。

結局、半分、予感があたってしまったような形になってしまった。
でも、こういう気持ちって大切だなって今更ながら思う。

明日、1時間後、1秒後、どうなるかわからないのだから、今を精一杯生きること。
自分が伝えたい想い、自分がやるべきことは、そのままにせず、今、しっかりと伝え、しっかりと行動し、しっかりと残しておくこと。

そういうのって、本当、大切な気がします。

別に、何か大きな事をしなければならないっていうわけではないけど。
何か変わらないとならないっていうわけではないけど。
でも、あなたらしく、自分らしく、今という瞬間をしっかりと感じ、今をしっかりと生きていれば、きっと、誰かに繋がり、誰かと共鳴し、誰かと共有し、誰かと生きていくことになるのだとそう思う。
明日でもなく、昨日でもなく、今、この瞬間を。

そういうのって、本当、大切な気がします。

これから、どうなるかわからないけど、こういう気持ちは、持ち続けて生きたい。
なにがあっても、悔いの無いように生きたい。

そう思うのです。。。。
泣くことのないように。
悲しむことのないように。



KOKIA 世界の終わりに 歌詞
 
シェアボタン: このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
昨日の夜、入院する前に買いだめしていた「地球が静止する日」という映画のDVDを見た。

ある日、宇宙を司り、その代表だと名乗る使者が現れる。
その使者は、地球の危機的状況を人間に伝えに来ていた。
しかし、地球に来て知ったこととは、この地球の危機的状況を作り出したのは、人間そのものだということ。
何時の時代でも野蛮で成長するも変わることも否定してしまっているようにしか見えない人間。
地球という存在にとって、人間という生きものは、お荷物でしかない。
そんな人間を抹殺し消してしまうことで、かけがえのない奇跡の星「地球」を守ろうと決断する。
しかし、ある科学者と子どもに出逢い、残虐にしか見えない人間のもう一面の姿・・・心に愛や慈しみや希望に溢れる姿を見る。
「人間は必ず生まれ変われる」
その宇宙から来た使者はその人間の姿と言葉を信じ、それに応える為に、人間を抹殺する兵器を止めようと動き出す。

今、この世界で起きている事を思うと、色々とダブって見えて、ドキッとする内容だった。


10年前、アメリカニューヨーク市マンハッタンにあるワールド・トレード・センターに2機の飛行機が衝突した。
半年前、日本の三陸沖で発生した地震は、東日本を襲い、津波や原発事故を引き起こした。

それから、世界で、そして、日本で未だに出口の見えない途方も無く長い旅が続いている。
その旅の先がどうなっているかなんて想像も出来ないけど、それに向けて変わったところも多くあれば、未だに、変わらないところも多くあるように思う。


命について。
繋がりについて。
愛について。

色々と考えさせられる2つの出来事。

10年前の出来事は、自分にとっても大きな出来事で、「共に生きる」こととは何なのかを追い求め始めた瞬間でもあり、あれからそのことを伝える事をいつも考えていた。
そして、半年前の出来事はそのことをもう一度反芻するがごとく、改めて見つめ直すキッカケになった。


2つの出来事は、人間という生き方の積み重ねが形となって現実化したのだと思う。
どこぞの議員が「必然的」と言ったらしいけど、遺族に配慮が有るか無いかは別として、本当のことを言っているように聞こえる。
テロと地震という風に形は違えど、そこから生み出されたことは、今までの人間という生き方がそのまま反映した結果なのだと、私も思う。

2つの出来事から生み出されたこと。
憎しみや悲しみや絶望といった形もあれば、愛や希望や慈しみという形もある。
そのどちらも、人間の中に同居し持ち合わせていた心であり、その見えなかった心の部分が、形となってはっきりと見えるようになったのだと思う。


これから先、自分として何が出来るのだろう。
昨日の夜見た映画じゃないけど、この2つの出来事が、自分たちに向けての警告でもありメッセージだとするなら、その事に応えなければならないと思う。
地球という星の上で、共に歩んでいくこと、共に生きることを、もう一度、選ぶなら、どうすべきなのか。どう在るべきなのか。
途方も無く、難しいことだと思うし、自分にとっての永遠のテーマだけど、この障がいを持って産まれて来たことそのものが自分の生き方とするならば、その永遠のテーマに対し、答えを見つけ、応えていかないとならないとそう思うのです。

イメージが現実化するサイクルがかなり早くなってきた。
だからこそ、いつも、心に愛を感じながら生きていきたい。
そして、地球が静止する前に、人間として、やれることはやっていきたいと誓う。

亡くなっていった人々の為にも、今を生きる人々の為にも、これから産まれる人々の為にも。
そして、自分の為にも。。。
シェアボタン: このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2012年4月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

カテゴリ

Powered by Movable Type 5.11

応援サイトバナー

  白雪姫プロジェクトを応援しています

このアーカイブについて

このページには、2011年9月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2011年8月です。

次のアーカイブは2011年10月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。